9/30「食の多元的意味」を考えるシンポジウム
面白そうだなと思って申し込んでおいたシンポジウム、台風接近の中、行ってきました。
糖尿病と摂食障害をともに「意味づけられた〈食〉」として同じ場で語るという試みが新鮮。
糖尿病を生活習慣病と呼び、個人の努力によってコントロール可能であるとする考え方は20年くらい前から広まったらしい。
糖尿病も1型と2型とで悩みはずいぶん違う。
自分が共感しやすいのは、自己責任と思われがちの2型の方で。
でも1型の人が、子供の頃から食を親にコントロールされていたのに気付いて大人になってから食の経験を取り戻そうと思ったという話にはぐっときた。
2型糖尿病の人は、診断を受けてからストイック過ぎるくらい糖質制限をして、食べたい欲求と闘ってきたけど仕事が変わったストレスでリバウンドしてしまった。
「メンタルが平穏でないと糖質制限を続けられない」と。
糖尿病(特に2型)は、正直な身体を相手にし続け、医療者に観察され続ける。
普通に食べるという形式の中で欲求を常にコントロールしなければいけないし、正しい食べ方をしたかどうかが後から数値で知られてしまう。
後からしか分からない。自分では分からない。これは耐えがたい気がする。
今すぐなんとかしたいし、自分で把握したい。
摂食障害だと、食べ過ぎたら吐くとか拒食とか下剤とか、欲求(歪んでたとしても)のままにすぐさま身体のほうの辻褄を合わせていて、ずるいのである。
そして待つことができない。
本当は、ここで自分が当事者だからといって「摂食障害の人は〇〇だ」と書くべきじゃない。
私の摂食障害はこう、というところまでしか言えない。
それはシンポジウム後半の摂食障害の話を聞いて思ったことでした。
まだ頭を整理できていないので、今日はここまで。